瑞興寺の沿革
創建
・天文年間(1532~1554年)
僧明願が一宇の道場を三十歩神社(大阪市平野区平野東2丁目)の辺りに建立しました。 天文年間とは、種子島に鉄砲伝来、武田信玄・上杉謙信の川中島の戦いがあった室町幕府(~1570年)の末期です。
・天正年間(1573~92年)
瑞興寺は石山合戦で織田信長と戦った顕如により、天正年間(1573~92年)に本尊(木造佛)寺号の許しを得ています。
・1570~1580年
石山合戦が続いた(10年間)。これは今の大阪城のところにあった石山本願寺に居を構えた顕如(けんにょ)と織田信長の戦いです。
・1580年
本願寺の敗北で講和が結ばれました。
移転
・慶長6年(1601年)
圓周坊信慶が現在の地(大阪市平野区市町3丁目)に市町惣道場(そうどうじょう)として移築しました。
・1600年
関ヶ原の戦い。
・1602年
京都東本願寺建つ(東西本願寺分裂)。
・1603年
徳川家康、江戸幕府を開く。
御影・真影
繪像
本堂の内陣の右側の親鸞聖人、北側の余間の七高僧、聖徳太子の掛け軸には、元和(げんな)3年(1617年)の裏書きがあります。内陣左側の蓮如上人は寛永16年(1639年)のものです。
本尊
木造の阿彌陀如来立像は玉眼、漆箔像で16世紀の制作と考えられます。
・本堂は、1994年の修理時、屋根裏から「寛政元年十月十九日」(寛政元年=1789年)と書かれた棟上げ札が見つかりました。
名号
北側余間の中央の六字名号(南無阿彌陀佛)は蓮如上人(1415~1499年)御筆との記録があります。
・親鸞聖人繪伝は正徳3年(1713年)の作です。
瑞興寺住職 紹介
住職・釋 秀顕プロフィール
1952年1月10日
大阪・西道頓堀で材木商の長男として生まれ、東大阪、布施で育つ。
学生時代
教育大付属平野中、府立天王寺高校を経て京都大学法学部卒。
中学で陸上部、ブラスバンド部、高校、大学とラグビー部で主将。
ポジションはバックス、主にスタンドオフ。
社会人
丸紅東京本社に6年半勤務。その間、瑞興寺の長女と結婚
1981年4月
京都大谷専修学院に入学、そこで親鸞に出遇う。得度を受け僧侶となる
1982年3月
学院卒業、瑞興寺にて僧職につく。
同年より東本願寺・修練道場スタッフを勤める。
1992年12月
大阪ミナミに「坊主バー」を開く
1996年2月~
瑞興寺住職。
1996年4月~
真宗大谷派大阪教区会議員。
2001年9月~
真宗大谷派宗議会議員。